春のクッキーモンスター

ねむい。ねむくてたまらない。

春だからなのか、老いぼれているからなのか、それはわからないのだけれど、とにかくねむい。

圧倒的な睡眠不足に抗うすべもなく、キーボードに両の手を置いたまま虚無に絡めとられ奈落へと落ちてゆく己が意識。意識が無意識にふらりと裏返るその折の心地よさにああ、もういっそ身を任せてしまいたい。ぐおんぐおんにデスクに突っ伏して眠ってしまいたい。

 

あかん

 

眠気覚ましに席を離れ、少しあたりをうろうろして眠気を覚まそうかと虚ろな目つきでうろつくも所在なく、ああそうだそうだとポケットに忍ばせたオレオを貪り食うオレオレ。

 

ねぇクッキーモンスター

オレオってなんだかほろ苦スイートだよね

 

脱力わらい

なんかいらつく。いらついてしまうと、ついついそれが仕草や目つきに現れてしまうので困る。

わたしはとても率直なのだ。

といっても世間の人々は、たとえそれが率直さに起因するものであったとしても、わたしにいらつきを見せつけられるのを好まない。それはもっともなことだと思う。わたしだって他人のいらつきを見せつけられるのなんてまっびらだ。そんなものを率直に押し付けられてはかなわない。

ということで、なんとかいらつきを体現せずに人と接することのできるレベルになるまで、自席を離れ別室で自主隔離をしている。サボっていると言えばサボっている。

でこの文章を書いている。いや書いている、というか画面を指でなぞっている。だが悲しいかな、なぞりながら作る文章はなんか調子がよろしくない。いまいちうまくない。いや、別にいつもうまくもないけどな。

あーうまくも書けない上、腹まで減ってきた。

うまくかけない。

はらがへった。

いらつく。

こうして自分の心もちを文字にしてあらためて画面上で眺めてみると、なんとも平和であさはかで。

脱力わらい。あはは。

逡巡の数だけ

何を成し遂げようが何も成し遂げまいが結局人は死ぬんだよ。

高速道路を走る車の窓から見えるずっとむこうの杉の木にとまった黒いカラスが「かぁ」の形にくちばしをうごかしたと思ったら、それを聞きつけた耳ざといSiriがしたり顔で私にそう告げた。

なるほど、これは神様の使いとAIとわたしとの間での伝言ゲームなのだ。

でもね、Siri、その訳は本当に正解?黒いカラスは本当にそう言った?

Siriはだんまり。わたしの問いには答えない。どうやらSiriはカラスの言葉にしか反応しないらしい。

確かに。選り好みばかりの気まぐれな運命の女神ですら、結末としての人の死は覆せない。乾ききった砂漠ぐらいにカランと平等。

世界の全てが沈黙して無音に沈むくらい圧倒的平等。

残されたたくさんの物は、持ち主と一緒にその一生を終えるべきなのだろうか。

不在がくるりと踵を返し存在をつきつける。

おはらい箱の段ボールを逡巡の数だけ積み重ね、夫の実家を片つける。

かぁ。

猫の背中

日向の猫の背をそっと撫でたらお日様の光にきらきら埃がたつような、そんなゆっくりとした毎日にあこがれていた。撫でられた猫は目を細めてわたしのほうにちょっとだけ顔を向け、たつ埃と撫でた私をひどく愛し気に見て声を出さずに「にゃあ」と口だけを動かすから、わたしも同じくらいに目を細めて鼻づらを少し上に向けて返事をする。「にゃあ」声は出さない。

雪が降る日は暗く曇った空を不安に思うわたしのそばで、冷えた毛皮の猫が何も不安なことなんかないと、静かにくるりとまるくまる。でも今日のお前の毛皮はずいぶん冷たいよ。撫でても埃もたたないよ。そう思いながら猫を見る。猫はちらりともこちらを向きもせず、ただただ背中でいつづける。

撫でるよ。どうぞ。表面の毛は冷たいけど猫本体はあたたかい。口には出さずにそっと心で考えただけだったけど、猫にはすぐにばれるらしい。猫の背中が少し笑った。

どすこい文学

ねこが背中をよじ登る冬。わたしにはよじ登ってくれる、ねこすらいない。

「ねこすらいない」って字面がちょっと「どすこい」に似てるね。

「どすこい」って打とうとしたら候補にドストエフスキーがでたよ。

なるほどね。「どすこい」って意外に文学的なのだね。どすこい。

そんなこんなの冬の朝。わたしはこの文章のはじまりを「猫が背中をよじ登るふゆざむの朝」とぜひとも文学的な感じでしたためたいと思ったのだけれど、何とまあ驚いた。思い立って「ふゆざむ」という言葉を検索してみたら、そんな言葉なんてどうやらこの世にないみたいなのだよ。文学的なんていい気になってるばあいじゃない。

きょうまで幾度となく冬の寒い朝には「ふゆざむ、ふゆざむ、なまねこ、なまねこ」とお念仏のように唱えながら暖房のスイッチを押し続けてきたというのに。

ひどい、ひどすぎる。この世に「ふゆざむ」という言葉が本当に存在しないのだとしたら、これまでわたしが繰り返し唱えてきた「ふゆざむ、ふゆざむ」は一体何だったというのだろう。ああ、そうか。わたしは意味のないわけのわからないことを呟いている、ちょっと変な寂しい人だということか。

なんか悲しい。ぐすん。償ってほしい。償っておくれ。償っておくれ。

「償う」はっ!もしや・・・

一抹の不安に駆られわたしはまたもキーを打つ。

「償う まどう」

な、なんと「償う」は「つぐなう」であって、「償う」に「まどう」の読みが全然出てこない。

うそだうそだうそだ!宮沢賢治のお話で、なんかよくわからないねずみが「まどっておくれ、まどっておくれ」としつこく言っていたような記憶が確かにあるのだ。その時の漢字表記が確かに「償っておくれ」だったという記憶があるのだ。

わらにもすがる思いのわたしは、震える指でキーをたたく。

宮沢賢治 まどっておくれ」

ふふふ。ほらね。

案外「ふゆざむ」って言葉だってさ。

情緒的出勤の風景

自転車通学の女子高生が風に膨らむスカートを懸命に手で押さえながら走って行った。あの高校は確か今年からジェンダーレス制服が取り入れられてるはずなのに。それでもやっぱりスカートを好む女の子もたくさんいるんだろう。

走る車の助手席の窓を風に吹かれた落ち葉が打つ。幾つも幾つも、かさこそ音を立てては打つ。赤や黄色や茶色や緑。秋の終わりの低い朝陽と斜めに吹く風に翻って光る枯れ葉は意外ときれい。

細い道を抜けた先に広がる運河の水が風にさざめいてキラキラわたしを眩しくさせるのはいつの時も同じだけど、なぜかこの季節の水のきらめきは心の大切な部分をしんとさせる。苦しいみたいにしんとさせる。とても冷たい。

地べたに落ちた茶色の枯れ葉が、低い風にからころ転がって、わたしの乗る車の前を走って行った。ほらこっちだよ。早く走って。ひとりぼっちのわたしに枯れ葉だけが優しく。

気をつけてペンギン

デスクのわきのアクリルパネルに貼りつけられた金ちゃんヌードル1万円プレゼントの応募シール2枚をぼんやり眺めながらセブンイレブンのPBの炭酸水を飲んでるなう。炭酸水なう。応募シールなう。集まらないなう。1万円ほしいなう。応募できないなう。やる気ないなう。完全逃避中なう。なんか嫌になってるなう。なうなう。

逃避ついでの“なう”考 

・日々は“なう”の連続である

・未来は果てしなく続く“なう”の延長線上にある

・いや、果てしなくはなう、じゃなくて、ない

・わたしの平べったい視線じゃ果てが見えないだけ

・“なう”はわたしを未来へと押し流す

・”なう”は新たな“なう”を次々生み出す

・“なう”は“なう”を消費する

・“なう”はわたしを消費する

・しつくす

・しつくされるまでライフ ゴーズ オン

少しだけ想像してみる。

しなびて色褪せたたくさんの“なう”が、いかにもな顔でわたしの軌跡ヅラしてペタペタペタペタついてくる。まるで得意げなペンギンみたいに。

時々は容量の悪いペンギンが、うっかりわたしを追い越して、その黄色い足びれでぺたりとわたしの足を踏んづけるから、そのたびにわたしの胸が思い出にずきんとするの。

気をつけて、ペンギン